
2025/05 GALLARY





CUCINA MATERIAL空想劇場
五月の記憶
「久しぶりだね、この町も、料理も」
五月の柔らかな風が窓から差し込むCUCINA MATERIALIに、
中年の男性が一人、懐かしむような眼差しで佇んでいた。
田村修司(62歳)、かつてこの街で育ち、
料理人としての夢を抱いた男は、
今や海外のミシュラン星付きレストランの
オーナーシェフとして名を馳せていた。

「本日はお一人様でのご来店ですね、田村様」
AYUMIの明るい声に、修司は静かに頷いた。
20年ぶりの帰郷。
成功とともに失ったものの重さを、
彼は誰よりも知っていた。
「評判は聞いていたよ。月に二日だけ営業する、謎の名店が」
カウンター越しに静かに料理を作るosakabeを、
修司は値踏みするような目で見つめた。
同業者特有の厳しい視線だ。
「五月のメニュー、スタートです」

最初に運ばれてきた前菜五種盛り合わせを前に、
修司の表情が一瞬緩んだ。
ホタルイカとオクラの和物から始まり、
パプリカのアンチョビガーリック風味、
ほうれん草のグラタン、
ズッキーニのオーブン焼き、
そしてきのこ&ブロッコリーのガーリック風味。
彩り豊かな盛り付けに、プロの眼差しが光る。
「和と洋の融合か。簡単なようで難しい」
一口ずつ味わうごとに、
修司の眉間のしわが少しずつ解けていく。
特にホタルイカとオクラの組み合わせに、
彼は小さく息を呑んだ。
「これは…母が作ってくれた味に似ている」
プロとしての批評眼と、
一人の食べ手としての感情が交錯する。
続くスパゲティカルボナーラで、
修司は初めて素直な称賛の言葉を漏らした。

「卵とチーズのバランスが絶妙だ。誰に習ったんだ?」
osakabeは黙って首を振る。
独学だという。

魚介のコロッケ、たらことフレッシュトマトのソースに、
修司は思わず笑みをこぼした。
「おいしいね。シンプルなのに、記憶に残る味だ」
長年のキャリアで鍛えられた舌は嘘をつかない。
彼は次第に料理人としての姿勢を崩し、
一人の食べ手として料理と向き合い始めていた。

牛もも肉のタリアータ、ライムの香りを前に、
修司は初めて個人的な話を始めた。
「私は成功したよ。だが、その代償に家族を失った。
妻も子も、私を待ちくたびれて…」
肉の柔らかな味わいと、
ライムの爽やかな酸味が、
彼の苦い記憶を洗い流していく。
「料理で人を幸せにしたいと思ったのに、
一番大切な人たちを不幸にしてしまった」

アーモンドのタルトが運ばれる頃、
修司の目には涙が浮かんでいた。
甘く香ばしい風味が、
彼の硬く閉ざされた心を少しずつ溶かしていく。

「人生って、このタルトみたいなものかもしれないな。
表面は固くても、中は温かくて柔らかい」
食後のコーヒーを飲みながら、
修司はosakabeに向かって静かに語りかけた。
「君は正しい道を歩んでいる。
決して華やかではないかもしれないが、
本当に大切なものを見失っていない」
その時、初めてosakabeが口を開いた。
「料理は愛情です。形を変えた、愛情の表現だと私は思っています」
その言葉に、修司は深く頷いた。
店を出る前、彼はAYUMIに小さな封筒を渡した。
「彼女に連絡先を教えてほしい。
元妻だが…彼女を、この店に招待したい」

夕暮れの街へ歩み出す修司の背中は、
来た時よりも遥かに軽やかだった。
AYUMIは窓辺に立ち、薄紅色に染まる空を見上げた。
「五月の奇跡も、また一つ」
osakabeは静かに包丁を研ぎながら、微笑んだ。
CUCINA MATERIALIでの食事が、
彼にとって新たな始まりとなることを、二人は確信していた。
