小さな小さなマテリアル食堂

2025/04 GALLARY

『春の訪問者』

「本当に来る必要があったのかしら。こんな日に」
四月の初め、桜の花びらが舞い散る雨の中、CUCINA MATERIALIの扉を開いたのは、
若い女性だった。
傘から雫を落としながら、彼女—河野美月(28歳)—は不安げに店内を見渡した。
「いらっしゃいませ。河野様ですね」
AYUMIが満面の笑顔で出迎える中、美月は口元をハンカチで押さえ、小さく咳き込んだ。
国際NGOで働く彼女は、明日から赴任する海外での任務を前に、
複雑な胸の内を抱えていた。
「すみません、風邪気味で。大丈夫ですが…料理の味、わかるかしら」
カウンター奥でosakabeが静かに包丁を動かす音だけが、店内に響いていた。
「今日は四月の特別メニュー。まずは前菜の盛り合わせからどうぞ」

美しく彩られた五種の前菜が運ばれてきた。
自家製サーモンマリネから始まり、野菜のトマト煮込み、
菜の花と卵のミモザ風サラダ、鴨肉と万願寺唐辛子の粒マスタード和え、
そして水タコとプチトマトのガーリックオイル和え。
春の息吹を感じさせる色彩に、美月は思わず見入った。
「これ、全部食べられるかしら…」
しかし一口目の瞬間、彼女の表情が変わった。
サーモンの繊細な旨味が、鼻から抜ける爽やかな香りと共に、不思議と体を温めていく。
「あれ…味、ちゃんとわかる」
次第に美月の頬には赤みが差してきた。
それは風邪の熱ではなく、料理との対話によって生まれた温もりだった。

続いて運ばれた手作りボロネーゼソースのペンネに、彼女は小さく微笑んだ。
「子供の頃、母がよく作ってくれたんです。
明日から海外に行くので、しばらく日本食が恋しくなると思うけど…
こんな懐かしい味に出会えるなんて」
osakabeは黙って頷いた。
その沈黙の中に、無言の応援が込められていることを、美月は感じていた。

ホタテのパン粉焼き、レモンソースが運ばれる頃には、彼女の目には明るさが戻っていた。
「この料理、現地の人に作ってあげたいな。材料、手に入るかしら」

三元豚で巻いた3種野菜の一皿に、美月は目を輝かせた。
「この組み合わせ、素敵。料理って、違うものが出会って、
新しい価値を生み出すんですね。
私の仕事も、そうありたい」
パンを手に取りながら、彼女は初めてosakabeに直接語りかけた。

「シェフ、なぜ月に二日だけの営業なんですか?」
静かに料理を作り続けてきたosakabeは、初めて顔を上げた。
「一皿一皿に、すべての想いを込めるためです」
その言葉に、美月は深く頷いた。

デザートのティラミスを前に、彼女は小さな手帳を取り出した。
「私も、一人一人との出会いを大切にしよう。数ではなく、深さを求めて」
食後の紅茶を飲みながら、彼女は窓の外を見つめた。
雨は上がり、桜吹雪が風に舞っている。

「風邪、すっかり良くなったみたい」
店を出る前、美月はAYUMIとosakabeに深々と頭を下げた。
「ありがとう。私、きっと戻ってきます。
そして次は、現地の料理を教えるつもりです」

満開の桜の下、彼女の足取りは軽やかだった。
未知の国への不安も、きっと美味しい出会いに変わるだろう。
AYUMIは彼女の背中を見送りながら、小さく呟いた。
「四月の奇跡も、また一つ」
osakabeは静かに厨房に戻り、明日の準備を始めた。
CUCINA MATERIALIの月に二日間の物語は、これからも続いていく。