小さな小さなマテリアル食堂

「頑なな心を溶かすもの」

メニューを見た後、店内を舐めるように見回しながら、男はAYUMIに言った。
「トマトは苦手だ。大根も嫌いだ。ホタテは…まあ、食べられなくもない」
「櫻井様ですね。お待ちしておりました」
予約表を確認するAYUMIの前で、櫻井昇は癖のある手つきでメモを取っていた。
ベストセラー作家として知られる彼の作風同様、几帳面で疑り深い性格は業界でも有名だった。
「当日のお料理の変更は承れないのですが…」
「そんなことは分かっている。だが、食べられない物が出てきたら、私は黙って帰らせてもらう」
その言葉に、カウンター奥のosakabeは静かに包丁を動かし続けた。
最初に運ばれてきた野菜のトマト煮込みマカロニ添えを前に、櫻井は眉をひそめた。

野菜のトマト煮込みマカロニ添え

「トマトか…」
しかし、フォークを突き立てた瞬間、彼の表情が微かに変化する。
じっくりと煮込まれた野菜たちは、その個性を主張しながらも、トマトの酸味と甘みの中で見事な調和を奏でていた。
「これは…料理というより、むしろ物語のようだ」
作家の感性が、思わず言葉を紡ぎ出す。

ホタテとドライトマトの入ったリゾット

続くホタテとドライトマトのリゾットでは、櫻井の姿勢が少し前のめりになった。
トマトを乾燥させることで凝縮された旨味が、新鮮なホタテの甘みを引き立てている。
「面白い。これは実に面白い」
取材で訪れた世界中のレストランで、彼はいつも批評家的な目線を崩さなかった。
しかし今夜は、どこか違っていた。

ブリと大根のソテー、ビネガーソース

ブリと大根のソテー、ビネガーソースが運ばれてきた時、櫻井は小さく笑った。
「大根が嫌いだと言ったな。だが、これは…」

彼は言葉を探すように一瞬黙り込む。
「これは大根という名の、ブリへの愛の告白だ」

牛ロース肉のカツレツ、トマトソースを添えて

牛ロース肉のカツレツにたどり着く頃には、櫻井は完全に防衛線を解いていた。
トマトソースの酸味が、衣のサクサクとした食感と肉の旨味を優しく包み込んでいく。
「osakabeさん」
櫻井が声をかけた。
物静かな料理人が顔を上げる。
「君は、食材の本質を見抜く目を持っているね。その目で見た時、私という食材はどう映るのかな」
osakabeは、やさしく微笑んだ。
それは言葉以上の答えだった。

クレームブリュレ

デザートのクレームブリュレを前に、櫻井は長年書きためていた小説のノートを取り出した。
そして、すべてのページを破り捨てた。
「書き直そう。今夜の料理たちが教えてくれたように、素直な気持ちで」
食後の温かい紅茶を飲みながら、櫻井は静かに涙を流していた。
「小説家になって40年。やっと分かったよ。本当の物語は、既成概念を捨てた時に見えてくるんだな」
店を後にする櫻井の背中は、若々しく伸びやかだった。
櫻井を見送ったAYUMIは、締まった夜空を見上げながら呟いた。
「二月の奇跡が、また一つ」
 その言葉が櫻井に届いたかのように、彼は振り向き大きく手を振った。
雪が静かに降り始めた。
その夜、CUCINA MATERIALIは、また一つの魂を解放したのだった。